彼女は言う。そして
『ふざけるな!』
と叫びだしそうになる内側の声を必死になだめ、俺は自分に冷静になれと言い聞かせる。
「仕方のない事なの?」
と。そして彼女は繰り返す。
「あんたしか、頼れないんだってば」
彼女はそれ以上説明する事なく口をつぐむと、真っ白い同意書に目を落した。相手が誰だとか、どうして産めないのか、一切の説明は無く、俺の全身からは血が抜け、手足が痺れる感覚を味わっていた。
どうしてこんなに簡単に、子供を殺す決心が出来るんだろう。確かに俺も、若い頃には遊んでいた。でも、避妊に失敗したら妊娠するのは十分分かってたし、相手がどんなに安全だっていっても、ゴムつけてた。当然、一度たりともリスクを犯した事は無かったし、それを当たり前と思っていた。だからこそ余計、マリリンや相手の男の常識の無さに怒りを感じた。
「俺には、無理、絶対」
彼女は産まないと決めていて、片棒を担がされるのなんかまっぴらご免だ。
第一、こんな署名、何の意味も無い。別に免許証や保険証の身元確認をし照合する公式な署名じゃない。誰が書いても問題なくて、ある意味マリリンが書いてもいいし、実在しない男の名前を書いても構わない、そんな署名に、どんな意味が有る? どうして、俺が、書く必要が有る? これってさ、欺瞞ってヤツだ。せめて書類だけでも整えましたよって、私は手続き上の問題は犯していませんよって。そうやって、子供を堕胎する罪悪感を別にすり替え、気分よくぬけぬけと手術を受けようとしているんだって、それ以外考えられない。
マリリンを滅茶苦茶に責めたい気持ちが膨れ上がる。ずっと親友だったマリリン。彼女の実家は北陸の資産家で、娘が専門学校に進む事を許さず、マリリンは勘当同然で東京の街に出てきた。当然、実家からの援助は受けられない。あの頃、学校の中でも群を抜いて貧乏だったのが俺とマリリンで、その事が二人の友情を育んだと言っても過言じゃないと思う。俺達は学費のためにひたすらバイトして、科は違うけど、授業も実習も、競い合う様に学んでいた。だから俺達はライバルで親友だったんだ。彼女は抜群の成績で卒業し、すぐに一流ホテルに採用された。そこでは毎年の様にコンクールに入選する人がいて、多くのパティシエの憧れの職場だった。現に彼女は、若手の期待の星と言ってもいいだろう。去年の夏は、ヨーロッパ大会に行くベテランのサブについていったほどの腕前で、数年後には彼女が選手権にエントリーするんじゃないかと俺なんかは思っていた。
だからなのかもしれない。俺の中で何かが転がり、悔しい位、納得した。だから、産みたくないんだって。自分が進みたい未来のために、子供の命は不必要なのだ。
「お願いだから、名前、借りるだけ。絶対迷惑かけないから」
俺の気持ちを察した彼女は、もう一度繰り返し、深く頭を下げた。
ほっそりした体。とてもお腹に赤ちゃんがいるとは思えない。
「今、胎児ってどれくらいの大きさなの?」
「11週。来週になったら、中絶できる期間に入るんだ」
彼女は頭を起こし、そっと両手をお腹に当てた。
「それまで、この子の命は一週間しか無いんだよね。私はもう28年間も生きていて、きっとこれからもずっと生きていくっていうのに、この子の命は限られているんだよ。だから、私だって、辛いね」
静かすぎる声、泣いて嗄れた声。
「でもさ、お前、本当にそれ以外の道はないの? 自分は本音、産みたいんじゃないの?」
男だからこその素朴な疑問。女って、必ず子供を産みたがるものだと思っていた。
「そういう問題じゃないんだよ、産めないんだから」
彼女は重い口を開いた。
愛していないのだと。相手の男が誰かは分かってはいるけれど、行きずりだつた、と。
「そんなんで、私一人で育てられるはず、無いじゃない」
だから思わず
「愛が全てじゃない」
俺はそう切り返し、すぐに言った事を後悔した。
「赤ちゃん、可哀相じゃん」
出来婚でも、産まれる子供は幸せだって、俺は自分に言い聞かせていた。それは長い過去の記憶。自分を捨てた母親を恨むとき、最後の砦になる言葉
“産んでもらえただけで、十分幸せだ”
それがたった一つ、母親にできる感謝だったから。
俺は沸々と湧き上がる思いを必死で押さえ込み、絶対に間違っていない確信のあるアドバイスをした。
「お前の事妊娠させたその男と相談しろ。俺にお願いする以前に」
そして紙を突き返した。本当は誰が書いてもいい、ただの署名。こんな紙切れ一枚で、彼女はどんな良心を得る事ができるのだろう?
「お前だけが責任負う事じゃないからさ」
例えマリリンが男には責任を負って欲しくないと思っていたとしても。
それからしばらくして、マリリンは姿を消した。携帯は契約が切られ、仕事も辞め。パソコンのアドレスにもメールは届かなくなくなり、誰も彼女の消息を知る人はいなかった。
後悔していないと言えば嘘になる。もっと親身になって彼女の話を聞いてあげるべきだったと。でも、俺は間違った事をした訳じゃない、そんな誇りだけが頼りだった。
こんな事が有った所為なのか、俺と荒川ちゃんとの関係にもどことなくぎこちない空気が漂うようになってしまった。多分、俺が妙にカリカリしていた所為だと思う。何かの瞬間彼女を思い出してしまい、心が囚われ、行き場の無い気持ちが体の中をぐるぐる渦巻く、そんな感じが有ったんだ。こうなるとストレスなのか、みんなの小さなミスや仕事の遅さが気になって、以前は怒らなかった事にも声を荒げて対応してしまう自分がいた。彼女は八つ当たりされる度に
「済みません」
と誤り、小さくなるけれど、実際の所はそんなに大きなミスじゃない。それどころか全体としてよく働き、今まで俺が気づかずにいた事もフォローしてくれていた事に後から気がつき、酷く落ち込んだ。
彼女に優しく出来ない自分に、無性に腹が立った。
そんなある日の事だった。ゴールデンウィークが過ぎ、一気に気温の上がった午後、俺達は二人きりでパイ生地の仕込みをしていた。この頃になると荒川ちゃんも要領を得てきて、指示通りのパイ生地を作れる様になっていた。
「そうそう、そんな感じ」
彼女は素早く動き、なかなかいい感じでまとめあげる。俺は素直な気持ちで彼女をほめあげ、彼女の照れ笑いを心から喜んでいた。久しぶりに、二人の距離が近づいているって感じた。
「まだまだ未熟って感じで。潤さんには絶対敵わないって思うと、これで結構落ち込むんです」
普通、パンを捏ねているとすぐ手が熱くなる。だからそのままの手でバターをたっぷりと含んだパイ生地を伸ばすと、すぐにバターが溶け出し、さっくりとしたパンに仕上がらない。だから俺はいつもの様に氷水でしっかりと手を冷やしてから始め、温まる前にフルスピードで仕上げる。その仕草を彼女はじっと見ていた。荒川ちゃんも同じ様な事をするけれど,どうしても体力に違いが有って、途中でもう一回手を冷やさないといけない事を気にしているらしかった。
「潤さんの手って、魔法みたいです」
荒川ちゃんの声は、俺に話しかけているって言うよりも、独り言みたいだ。だから思わず
「触ってみる?」
俺は捏ね上がったパイ生地を脇に寄せ,彼女の前に手を差し出していた。荒川ちゃんは目を見開き、
「いいんですか?」
と言いながらも、小さな手を差し出し、俺の手に触れた。
「本当に、冷たい」
柔らかな指の先が、俺の指の腹をくすぐる。
「意外と堅いんですね」
不思議な事に、荒川ちゃんほど俺の顔に興味を持たない女性は初めてだった。もっとも義理の兄があれ程美形だったら、俺でも競争にならないなって思う。そんな彼女を、良いなって思うと同時に、ちょっとだけ悔しく感じるのが不思議。
「一応、俺も男だし。荒川ちゃんと比べたら、やっぱり違うと思うよ」
彼女の手があまりに柔らかく心地よくって、それより先を求め、俺は彼女の手を軽く握り返していた。
「ほら、こんなに違う」
すると彼女は、ぱっと顔を赤くしながらも、何も気にしていないかの様に振る舞おうとした。
「これだけ手が大きいと、パンを捏ねるのにやっぱり都合がいいですよね」
なんて。
「ああ、うん、凄くいいよ」
俺はどさくさにまぎれて、そのまま両手ですっぽりと顔女の手を覆った。
「これぐらい、ね」
二人の距離はぐっと近づき、彼女はびっくりした顔で俺を見上げた。その目には恥じらいが浮かんでいて、俺はその初々しさにめまいがしそうだった。
『ねぇ、君は俺の事、好き?』
言いそうになり、ぐっと気持ちを堪える。彼女の事が好きすぎて、おかしくなっているみたいだ。
馬鹿みたいに見つめる俺。でも彼女は不意に瞳を曇らせ、体を引いた。
「あっ、ご免、馴れ馴れしかった?」
俺も慌てて距離をとり、うつむく彼女を見下ろしながら、なんて言って誤魔化そうかと言葉を探した。
「あっ、いえ、違うんです」
彼女は大きく首を振り、自分の小さな手をぎゅっと組み合わせた。
「実は悩み事が有って、なんだか急にそれ、思い出しちゃって……済みません」
そしてからっと明るい笑顔を浮かべ、もう一度ご免なさいを口にした。
「あっ、いや、別に謝られる事無いし。ってか、俺が謝らないといけないって感じ? あっ、でもその悩み、俺で良かったら聞くよ」
ほんの少しでも彼女の力になれるんだったら嬉しいと思った。すると彼女は、今にも泣き出しそうな目で口を開いた。
「友達に相談されているんです」
と。
それは偶然にも、マリリンの悩みに似ていた。
未婚のまま妊娠してしまった友人に、どんなアドバイスをしてあげるべきなのか、と。
「結婚しようだとか、将来を夢見ていた訳じゃないんだそうです。ただ、その人といれば守られているって感じて、このまま惰性で結婚して子供産むのが誰の目にも幸せだって分かっていて。でも、本当にそれでいいのかなって、物凄く悩むんだそうです」
つまりその彼女は、結婚する気の無かった男の子供を妊娠してしまいどうすればいいのか、結婚して産む道を選ぶべきか、それとも堕ろすべきかを悩んでいるらしいと察した。
「そんなの、決まっているでしょ?」
俺は迷う事なく答えていた。
「大人には大人の責任ってのが有るから。男にしろ女にしろ、妊娠するかもしれないって、分かっていてエッチしたんだから。だったら、出来た子供にも責任とるのが筋ってもんでしょ。産まないなんて選択肢、最初から無いんだよ」
これって、本当は俺がマリリンに言ってやりたかった言葉だって思いながら口にした。
「堕ろす事考えるくらいだったら、最初からまともな避妊、しておくべきなんだ」
思わず声を荒げていた俺に、彼女はふわりと優しい笑顔をくれた。
「良かった。潤さんだったらそう言ってくれると思った」
その笑顔があまりに神々しくって、俺は不意に泣き出したい気持ちになってしまった。
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Date:2010/12/31
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Thema:自作恋愛連載小説
Janre:小説・文学