彼女との契約変更は先週の内に会計士の人に相談していて、店のコスト的にも大丈夫だろうと言われていた。
「でも、本当にそれでいいんですか?」
大きすぎて体に合わないスーツを着た担当者が、ちょっと不思議そうに聞いてきた。俺は迷わず頷いて。
「店で一番働いてるのは俺だけど、次に頑張ってるのはある意味彼女だからね」
自分の決定に間違いは無いと思った。
二月十四日の朝、いつもと変わらない様子で荒川ちゃんがやって来る。
「おはようございます。今日も天気良くなるみたいですね」
俺は今日が特別な日になる事を予感し高揚しそうな心を抑え、控えめな微笑みを浮かべてみる。
「ああ、そうみたい。きっと今日も混むよ~。よろしくね」
チラッと目にしたその手には、いつも彼女が使っている見慣れたバック。裏に隠す様に、紙袋が二つ、大きいのと小さいのが揺れていて。舌切り雀の葛籠(つづら)を思い出し、なんだか小さい方に宝物が入っている気がした。
もしかして、チョコレート? いや、きっとチョコだ。で、俺にくれる気有り? とか、いや、俺達みんなに配るんだ、とか、仕事の後誰かと待ち合わせているか、それとも中身がチョコレートじゃないって事も有るよな、とか。なんだか考えてもどうしようもない事ばかりが頭の中を駆け巡り、俺って馬鹿みたいだって思った。今日は彼女に話さないといけない特別な事が有るって言うのに、肝心の事よりも、荒川ちゃんからチョコレートを貰えるかどうかが気になるなんて、どうかしている。
店には週代わりのスペシャルメニューが有って、今週は安藤さんのお店、ブラッスリーA特製のパテを挟んだバゲットと、デニッシュチョコレートのセットボックスだった。彼女がせっせとボックスを組み立て、サラダ菜を洗い水を切る傍で、俺はパイ生地を折り重ねる。たっぷりのバターが練り込んである生地は、扱う手の体温が高いとすぐにだれるから、俺はこの季節でも作業中時々氷水に浸して手を冷やす。かじかんで動きが鈍くなる事は承知の上。だから指先に神経を集中し、素早く丁寧に折り込む。
彼女は俺がパンを扱う様子を見るのが好きだし、それを隠さない。
「潤さんの手って、魔法みたい」
彼女が見つめるのは、俺の顔じゃない、手。あくまで、手の動き。
「おいしいパンを作る人って、手の動きで分かりますよね」
うっとりと漏らす独り言。俺は下手に相槌を打つと彼女が現実に戻る事を知っているから、何も言わずに作業を続け、彼女の尊敬を含んだ柔らかな視線を楽しむ。
その作業が終わると当然次の作業が待っていて、今度は手を普通の温度に戻さないといけない。俺はボールに張ったお湯でしっかりと油分を落した後、感覚を確かめながら手を擦りあわせ温める。そんな様子を見つめながら
「潤さんの手の動きが大好きなんです」
彼女はまるで恐れを知らない子供の様に口にする。そんな純粋さを、俺が怖いと思ってるなんて、知らずに。
そうこうしているうちに、俺達は並んで作業を始めた。すぐ隣にいる彼女の体から、店で出している物とは違う、シナモンを含んだチョコレートの香りがした。これってバレンタインチョコを手作りしたって事だって直感し、奇妙に心が疼いた。落ち着かなくて、そのくせさりげなく
“チョコ作ったの?”
って聞けず、沈黙が続く。そこで思い出したのは、肝心の契約の話だ。
「あのさ、荒川ちゃん、今日の夕方、暇ある?」
まだ早い、二人だけの部屋。彼女は作業の手を休め、
「えっ?」
きょとんとした顔で俺を見つめ返し、
「あっ、その……」
さっと頬を赤くし、困った様な顔つきをした。
「いや、違うって」
絶対勘違いされたって分かっていて、でもそれも有りだよなと速攻開き直り、
「大事な話しが有るから、帰る前に少しだけ時間頂戴」
と思わせぶりに告げ、その場を離れた。
これって、パワハラ? 俺はドキドキしながらこっそりと振り返る。するとちょっと丸めた背中越し、盗み見る様な彼女の視線とバッチリ合ってしまい、かなり照れる。彼女は絶対に誤解した。もしかしたら俺の方からチョコレートをくれって言い出す気かもしれないとか、反対に俺からチョコレートを貰うかもしれないとか、色々想像しているに違いない。きっと混乱し、やきもきしているんだろうと思うと、俺の唇の端に自然に笑みが浮かんだ。だってそうじゃないか。俺ばっかり彼女の事を意識して、彼女の方は俺を雇い人だとしか見ていないなんて、不公平だ。確かに一緒に仕事をしている訳だし、お互い気まずくならない様に気をつけていて、そんな事が無いようにしている事は自分が一番分かっているけど、でもやっぱり、男として意識されていないよなって実感は俺のプライドを刺激したし、何よりも空回りしているこの気持ちの苦い所を彼女にも味わってもらいたいという、かなり意地の悪い気持ちがあった。
そして俺は、仕事の事をどう彼女に切り出し驚かせてやろうかと考え、一人ほくそ笑んだ。
だがそんなウキウキした気分は長くは続かなかった。そう、全て自業自得ってヤツだ。なんと、この日を狙ってあのロエベがやってきたんだ。しかも、荒川ちゃんをダシにして。
開口一番、
「おめでとう」
ロエベはカウンターの横で売っていたランチボックスを取り上げ、荒川ちゃんに向かって差し出し会計をせがみながらそう言った。
「このお店に正式に就職が決まったんですって?」
と。
「はぁ?」
人の多い店の中、荒川ちゃんは動きを止めた。
「昨日の夕方、志努さんから聞いたのよ。派遣会社クビになって大変だったけど、やっとここで正社員で働ける事になったって。良かったわね~」
彼女は持って来た紙袋を突然ごそごそと漁りはじめ、荒川ちゃんはロエベが何を言っているのか分からないって顔で俺を見た。
「あっ、それは……」
慌てて二人の所へ行こうとするが、今一歩出遅れ
「それって、志努さんが言ったんですか? 私がこのお店に正式に雇われたって」
荒川ちゃんは疑い深そうな声で聞いていた。きっと会計事務所から届いた報告を見た兄さんが、この女にしゃべったんだって思った。
「うん、そうよぉ、当たり前じゃない。それより、はい、就職のお祝いね。実はこの前の出張の時、免税店で自分用に買っていた物だけど、同じ物プレゼントされちゃって要らなくなったの。でも凄くお高くて良いものだし、折角だから遠慮しないで使って」
取り出したのは、お約束の様にロエベのロゴに包まれた包装紙。
「私、このブランドが大っ好きだから、ついつい買っちゃうの、駄目よね、お馬鹿さんで」
これっぽっちもそんな事を思ってなんかいない、ただの自慢話を振りかざし、彼女は会計のお金を無造作に置いた。
「お礼なんか良いから、気にしないで。あっ、おつりはそこのチャリティーボックスに入れてくれる?」
人の心に土足で踏み込むって、こういう女の事を言うんだと思った。その上彼女は近づいた俺に向かって、蕩ける様な笑顔を投げかけた。
「潤、久しぶり。本当は、死ぬほど私に会いたかったでんでしょぉ?」
あれ以来、彼女からのメールは全て無視し、一度も返した事が無い。それを彼女は別の意味で受け取ったらしい。なんて自分勝手な解釈。彼女は上目遣いに俺を見上げ、何回か睫毛を瞬かせた。
「この前の夜はご免なさい。アレからずっと考えていたけど、やっぱり私達、付き合うべきだって確信したの。んん、最後まで言わせてね。潤は私と志努さんが付き合っているって思っていたんでしょう? でも、違うから、ね、荒川ちゃん?」
成り行きを飲み込めていない感じの彼女は、突然ふられたじろぎながらも、微かに頷いた。ロエベはその様子を確認し、再び華やかな笑顔を俺に向けた。
「潤が、彼の事を凄く気にしていて、私に本気だから距離置かなきゃって思う気持ち、有ったんだな~って、なんだか後から気がついて。私がきっぱり、志努さんとは付き合っていないんだって言わなくて、あなたの事苦しめたんだって、もの凄~く、反省した」
またしても、昼メロ! 俺は引きつりそうになる顔を、お客さんの手前、無理矢理笑顔に変えようとしていた。でも心の中に、ののしりの言葉が湧き出して___。
本当は俺の口から伝えるはずだった
“おめでとう”
が、耳の奥でこだまする。荒川ちゃんが長い間望んでいたはずの、正社員としての雇用だ。その上、何を勘違いしているのか、俺が自分に気が有ると思い込んでいるなんて、有り得ない、絶対に、絶対に、絶対に。
「帰ってくれ」
思わず口をついていた。
「帰れ」
自称クールな俺は地に落ち、まるで女と付き合った事の無い男が、見栄張り過ぎてヒステリー起こした、みたいな感じになってしまっていた。
「終わった事だろ? しかもたった一晩の事、何を今更蒸し返すんだよ」
すると一瞬、彼女の瞳の奥に光が走り、
“しめた”
の声が聞こえる気がした。
「あれは遊びだったの?」
女は狡い。どう振る舞えば男がダメージを受けるかよく知っていて、ギャラリーを前にか弱い自分を演出し、最低の武器を振りかざす。
「それって、酷くない?」
小さく手を目元に当て、泣きの仕草。
「潤、私の事玩具にしたんだ」
このとき気がついた。彼女は俺に愛の告白をしに来たんじゃない、復讐しに来たんだって。馬鹿じゃね? 馬鹿じゃね? この女、ってか、変だよ! 絶対、この女は変だ! 狂ってる。
「酷い、酷いよ」
しくしくと泣き、毒を回りにまき散らす姿を唖然として見下ろした。
カラン、ベルが鳴り、こっそりと店を抜け出すお客さん。____最低な状況。でもそれを分かっていて
「帰ってください、迷惑です。あれは、完全な間違いだったんです」
俺は強い意志で言い放った。どんなに腐っていると思われても良いと思った。これで来なくなる客だったら、それまでだ。俺はパン屋で、芸能人じゃない。この安物の修羅場を本気だと思う人間がいれば、それはそれでいい。今まで遊び尽くした罰がこれだって言うなら、仕方ない、受けて立つ。でも、俺のパンを美味いと思ってくれている人だったら、絶対に離れていかないって自信が俺を強くする。
彼女は最後まで恨みを口にし、去っていった。俺は店に残る客に向かって頭を下げる以外の謝り方がなく、その上荒川ちゃんの顔を見る事も出来ないまま、製パンルームへと戻った。
とにかく疲れる一日だった。こんなはずじゃなかったと、何度も何度も思った。想い描いていたパーフェクトな一日は、全て外れの宝くじみたいに心の中をひらひらと舞い、やがて泥にまみれる。
俺のセリフに、荒川ちゃんは絶対俺が女にだらしないって確信したと思うし、ここで俺の気持ち、荒川ちゃんを物凄く気にしているって事が少しでもバレたなら、一生近づかせてもらえなくなるって感じていた。
だから俺は、彼女から少し距離を置こうと、そう決めた。
彼女が正規社員になれると言う話は、客足が途切れた瞬間を狙ってそっと控え室に呼び
「そういう事だから」
とだけ話し、
「もしその気があったら、三月からの契約って事で」
雇用規約のコピーは家で読んで欲しいと渡した。
「ありがとうございます、感激です」
彼女の返事は確かに喜んでいる様に聞こえるものの、らしくなく。感情を殺している様な返事だった。
その後、仕事が終わり帰ろうとするみんなにチョコレートケーキを配った。マリリンが勤めている工房の、なかなか予約の取れない限定品だ。すぐに気がついた加藤・佐藤コンビが
「マジ! すげっ! 俺、ここのチョコレートケーキ、憧れていたんですよ」
「よく手に入りましたよね~。やっぱり真里子さん経由ですか? 御馳走になります」
「でも、すぐ食べるのって、かなりもったいない気がするよね」
「いや、何回かに分けて食べて味落ちても、泣ける」
先ほどの痴態をすっかり忘れたかの様にはしゃいでくれ、助かる。
「そうだよ、彼女のコネがなきゃ買えないって」
俺は笑いを取り戻し、みんなの顔を見た。すると
「あっ、あの、こんな素敵な物の後に出すのは恐縮なんですけど、でも、ちょっと待っていてくださいね」
と言いながら、控え室に行ったかと思うと、朝に見かけた紙袋の大きい方を持って現れた。
「きっと皆さん、チョコレートは沢山貰うだろうから、飽きちゃうとなんだなって思って、おせんべい選ばせてもらいました」
彼女は小さなカードのついた袋をひとつひとつ手渡し、
「つまらない物だけど、気持ちって事で」
と笑いながら、他のスタッフを見送った。
そして二人きり。俺達は何も話さず、いつものルーチンワークを黙々とこなした。
本当は弁解したい気持ちが有った。あの女とは何でも無いって。でもそれを言う事がどんなに見苦しい事かも分かっていて、何も言えず。カラカラに乾いた喉で
「これから誰かと用事あるの?」
とだけ、聞いていた。
「はい、ちょっと」
彼女の返事はそれだけ。そして帰り際、
「この歳で、きちんと雇ってくれる所に恵まれるなんて思ってもいませんでした。本当に、感謝します。潤さんにも、志努さんにも」
と深々と頭を下げた。その手には、俺には見えない位置で小さな紙袋が隠されていた。
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あとがき














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Date:2010/12/21
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Thema:自作恋愛連載小説
Janre:小説・文学