「紫乃」
彼の声は甘える様に柔らかい。
みんなが二人の一挙手一投足に注目し、自然に荒川ちゃんの方を見る。
「だから、ここは私の仕事場です。こんな風に押し掛けてきてなんか欲しくないし、皆さんの邪魔になりますから」
彼女はまるで王子様を振るプライドの高い町娘。
「帰ってください」
すると彼は、きょとんとした表情を浮かべ、さも不思議そうに首を傾げた。
「僕に会うのが、そんなに嫌だった? 紫乃は僕の事、大好きだったんじゃなかったの?」
キラキラのプリンス、一度も他人から否定された事の無いプリンス。
「そんな事、この場で話す事じゃないでしょう?」
怒りさえ感じさせる言葉の強さにたじろいだ彼は、意味もなく周りを見渡した。
「済みません、お客様」
俺ははっと気がついてカウンターから飛び出し、彼の正面に回り
「私のスタッフに何か御用ですか?」
営業用スマイルで彼女を守る。まるで彼女に惚れている、幼なじみのガキ大将の様な立場だ。それでも強気に彼を追い返す。
「今はこのようにお店も開いておりますし、お急ぎのご用件でなかったら、お引き取りください。もし連絡先を知っているようでしたら、後ほど荒川から連絡を差し上げるかと思います」
彼の手にパンの入った袋とおつりを押し付け、この状況を理解しろと周りに目配せをする。すると、いかにも興味津々って感じに輝くいくつもの瞳が、目を反らす事なく俺達を見つめていた。
「それじゃぁ、仕方ないな」
彼は一瞬だけうつむき、すっと笑顔を見せ
「店、何時に終わるの?」
俺越しに彼女に質問を投げかけた。
「大体、四時過ぎには……」
渋々返事をする彼女を俺が遮る。
「この時期ですので、明日の仕込みも多いですし、もう少しお時間頂きます。早くとも、五時は過ぎると言う事で」
余裕無く働いて、疲れ切っている状態で、こんな厄介な男となんか会って欲しくなかった。それでも彼女は約束した。
「前の番号で良い? 必ず連絡するから。だから今は帰って」
と。
気を利かした佐藤ちゃんが彼女の持っていたパンのトレイをそっと持ってゆき、黙々と商品を並べはじめ、
「お待ちの方、どうぞ」
加藤ちゃんがレジを再開し、注目していたはずの観客は耳を澄ませながらもあたふたと自分達の世界へと帰ってゆく。男は悪びれたり落ち込んだりする様子を見せる事なく
「約束だよ、じゃぁ、四時間後、待っている」
と言い残し、去っていった。
それからの数時間、店内の空気は歯車がずれているかのような状態で回り続けた。スタッフはみんな
「いらっしゃいませ」
と
「ありがとうございます」
しか繰り返さない。どんな形であれ、荒川ちゃんが気がかりだったのだ。にこやかな表情ですれ違いながら、口に出せない想いを抱いていた。
そして彼女は強かった。全ての商品が売り切れ、店じまいとなり
「お疲れさまでした~」
と口にしながら、何事も無かったかの様に先に上がろうとする他のスタッフを、俺と荒川ちゃんは製パンルームで見送る予定だった。なのに、ドアベルがカラカラと鳴った瞬間、彼女はいきなり駆け出して、みんなの所へ行ってしまったのだ。
「えっ?」
慌てて俺もついてゆき
「あの人、あの人は私の、義理の兄さんなんです!」
の声を聞いた。彼女はエプロンの端をぎゅっと握りしめていた。
「私、何年も実家に連絡しないで、家出同然で東京で暮らしていたから、それで多分、あの記事を見て心配して会いに来てくれただけなんです。だから、そのう……」
不意に頭を下げた彼女の背中が、
“騒がせてご免なさい”
と言っていて___振り返って戻ってきた川越さんが
「荒川ちゃんは良い子だよ」
さりげなく彼女の肩を叩き、中西さんは少し持ち上げられた頭をそっと撫でた。
「大丈夫、気にしない」
そして加藤ちゃんと佐藤ちゃんは、
「明日も忙しくなりそうだから、よろしくね」
「期待しているから」
それだけを言うと、まるでいつもと変わらない一日を過ごしたかの様に手を振り、ドアをくぐった。
ベルの音がリンリンと続き、やがて静かになる。荒川ちゃんはほっと体の力を抜き、俺の方を見た。
「みんな、善い人達ばっかりですね」
彼女を花にたとえると、フリージアだなって思った。白くほっそりとし、誇り高く、間違え様の無い香気を漂わせている。
「俺も含めて言ってくれてる?」
空気を和ませたくって振る言葉を
「もちろんです」
荒川ちゃんは確実に分かってくれる。
問わず語り。二人作業台に並び、手を休める事もなく。
「私達の両親は、お互い子連れの再婚同士だったんです」
彼女は淡々と口にした。
荒川ちゃんの産みの親が亡くなったのは、彼女が小学校一年生の春だった。よく晴れた日で、鶯の鳴く声が空高く聞こえていたらしい。給食が始まるには少し期間が有り、お腹をすかせて走って帰った家の庭先で、彼女は死んでいる母親を見つけた。
「その日の昼ご飯も、ジャムパンだって分かってた。分かっていて、でも早く家に帰りたくって、必死で走って帰ってきたの、まだ覚えている」
もともと体も小さく、病弱だったらしい。いくつかの病気を患い、特に荒川ちゃんを産んでからの人生の半分は、布団の上で過ごしていたという。なんとか薬を使い生き延びてはいたものの、長生きは出来なかった。
「ある意味、病死みたいな感じです」
その言い方は、なんだかつまらないギャグを無理して笑うかのような言い草で、俺は生きながら死に向かう母親を目の当たりにしていた荒川ちゃんの心情の複雑さを感じていた。
「私達母娘は、生き写しって言われる位よく似ている親子だったんですよ。だからこそなのか、余計、母さんが死んでしまって、なんだか自分も死んでしまった様な、そんな感じが有りました」
やがて父親は後妻を迎える。やってきたのは、生母とはまるで違う、生きる力に溢れた快活な女性。一度として病気になったこともなく、高らかに笑い、一日中せわしなく働き、家事をこなしながら子供の面倒を見た。その彼女の連れ子こそが、先ほどの彼だった。歳は四つ上。大学入学と同時に家を出て、今は筑波学園都市で助手の様な事をしているらしい。そして一家は何事も無く普通に暮らし、彼女が東京に出てきた翌年、父親が鬼門に入ったという。大腸癌だった。
「それ以来、疎遠になっていたんです」
現在、彼女の実家には義母が一人で暮らしている。
「兄さんは、母親の事が大好きなんですよ。でも、彼の仕事は限られて場所でしか出来なくて、離れて暮らすしか無いし。だから自分の代わりに、義理でも娘の私に傍に居て欲しいって、それが本心なんだと思います」
俺は聞くべきかどうか迷いながら、それでも好奇心に勝てずに聞いていた。
「で、その、荒川ちゃんと義理のお母さんは、仲が悪かったの?」
当然俺は、悪かった、もしくは良くはなかったという答えを予想していた。でも返ってきたのは意外な返事。
「いいえ。全然、全く、違います」
四重(よえ)にも重ねた、強い否定の言葉だった。
「私達、義理とはいえ仲良く暮らしていました。義理の母はとっても真面目な働き者で、その上料理が上手くって、毎日みんなが大好きな御馳走を沢山作ってくれました。満(みつる)兄さんは、満兄さんで、私の事を本当の妹みたいに可愛がってくれたと思います。それに、父さんだって、幸せになったって、信じています」
それならばなぜ、家出同然に東京で独り暮らし、経済的にカッツカッツの生活をしているというのか。その疑問に、彼女があっさりと答えた。
「馬鹿みたいだって思われるかもしれないけど、負けたくないんです、幸せ比べに。私が私である為に、負ける事が出来ないんです」
盗み見る彼女の横顔にはっとした。なぜならば、この俺にも同じ思いが有ったから。
きっとこれは、単純に幸せな人間になんか分からない。普通の温かな暮らしに慣れた人間には思い及ばない感情。
自分にとって一番身近な人、家族。その家族がもたらす心の歪みとでも言えば良いのだろうか。実の親子だって上手くいかない事もある。それなのに、義理ならばなおさらだ。
そしてついつい、自分の話を切り出していた。
「それじゃぁ、俺の所とある意味似ている感じだね」
これは身内以外誰も知らない話。今までどんな親友にも打ち明けられなかった真実。荒川ちゃんは僅かに瞳をずらし俺を見たかと思うと、そのまま元の作業へと戻る。
「俺の母親は、資産目当てで俺を産んで、でもそれが手に入らないって分かったとたん、子供を捨てるような女だった」
ふと振り返る俺の記憶の中、想い出はいつだって父親と一緒、でも母親の影は無かった。
「俺の父親は資産家の次男だったんだ。でも家を継ぐよりパン屋になりたくて、飛び出して。そして母親は、そんな親父の財産目当てで近づいてきた女だったんだ。最初は同棲し始めて、俺が出来て、結婚して。でも親父が死んだとき、実は実家から勘当されていて遺産の相続権が無いって事が発覚したんだ。俺が中学に上がる直前さ」
寒い部屋、四畳半、段ボール箱。
『お前さえ産まなければ』
吐き捨てる様に言われた言葉を、本心と悟った。
「母親は俺と同じ、顔だけが取り柄だけの女だったから、生きていくために、手っ取り早く次の男を捜す必要が有ったって、そんな所だよ」
あの人が今も生きているという証拠は、毎年志努の本家に届く、
“あけましておめでとう”
とだけ印刷された一通の年賀状。
「だから、俺は厄介者だった」
今でこそ伯父さんや伯母さんも俺を受け入れてくれている。でも、母親が俺を捨てたと言う事実は変わりなく、風の便りで
“幸せにしている”
と聞いたとき、体の中に蟲が這いずり回る様な、例えようも無い不快感に身悶えしそうになり、こうなったら是が非でもパン屋として成功し、あの女お見返してやりたい、そんな気持ちに駆り立てられるのだ。
そんな風に過去に縛られ、人を憎む心を忘れられない自分を蔑んだ。でも、止められない。あんな女の所為で、自分の歩く道が醜い物に変わってしまう、そんな被害者意識を消すことが出来ないのだ。そして何かに躓く度に、全ての元凶があの母親に有るかの様な錯覚を覚え、叫びだしたくなるほど呪わしい気持ちが体の中で膨れ上がる。
そして今、大好きなパンを目の前に
『パンもそうだけど、食べ物って言うものは全て、作る人の心が映し出されるんだよ』
だから綺麗な心でいなさいと教えてくれた父親の言葉を思い出し、悪意という最悪な味付けをしようとしている事を、冒涜だと思った。だから考える。今の自分をどうやって変えようか、引きずり込まれそうな深淵からどうやって這い上がろうかと。そして隣りに、荒川ちゃんがいる。俺が闘っている様に、彼女もずっと心の中で闘ってきたんじゃないかって。それならば余計、自分の弱い部分曝す事で、心強くなれると感じた。
「俺が女ったらしだって、兄さんから聞いてるでしょ?」
その上、自意識過剰だ。
「それね、濡れ衣着せるんじゃないけど、もしかしたら母親の所為かなって思うとき、有るよ。なんて言うか、復讐? 俺、実はきっと、本当は女が嫌いなんだよね。母親を象徴する、女ってヤツが、本当は大っ嫌いなんだ」
心の表面を覆っていたわだかまりが一枚、羽毛の様にふわりと剥がれた気がした。
「だから、母親を意味する女ってヤツを蔑んで、馬鹿にして、それで満足していた所って、有ったんじゃないかなって」
初めて口にした心の底の悪意。それを言葉という形にし、解き放った瞬間、俺の心の中の毒がすっと消えた気がした。
彼女の話をしていたはずが、いつの間にかすり替わり、俺は握りしめた両手を振るわせながら作業台に強く押し当てていた。みっともない、俺。それなのに
「ありがとう」
彼女の小さな手が、俺の手に重なった。
「ありがとう」
と。
俺達二人の現実は、なんだか昼メロみたいだ。でもそれよりもっと痛く、逃げ場がなく、でも同時に、優しかった。
あの彼が荒川ちゃんに危害を加える人じゃないって分かった今、店を出る荒川ちゃんをふざけた口調で励ました。
「もし良かったら、お兄さんに俺の事、今彼だって紹介してくれても良いよ」
かなり天狗で図々しい言い草。だから、出来るだけ軽く聞こえる様に言った。
「念のため、二人の写真も撮っておく? それ見せて、幸せにやっていますって言って、納得してもらえれば?」
軽いジョークに、荒川ちゃんは真面目に答える
「じゃあ、はい、お願いします」
二人とも、何をしているか百も承知で、店の中で写真を撮った。
「ほら、折角だからこっち、近づいて」
「駄目です、その手はエロ過ぎます」
彼女は右手に携帯を持ち、俺は左手で自分の携帯を操作する。小さな彼女は背伸びをし、逆の俺はしゃがむから
「痛てっ!」
顎に彼女の頭が当たり、
「ご免なさい!」
謝る彼女がすっぽりと俺の腕の中。
「ナイス!」
そこを狙ってシャッターを押した。冴え渡る青空みたいに、幸せだった。
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Date:2010/12/17
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Thema:自作恋愛連載小説
Janre:小説・文学